果てしなく未完成 [ニュースレター:十一月号] / by kaz yoneda

弘化年間(1844年-1848年)改訂江戸図, Bureau 0-1加筆

「東京にはマスタープランがなかった」と誰かが言っているのを聞いたことがあるだろうか。
それは間違いだ。より適切なアフォリズムは、"Tokyo lacks master planning"(東京にはマスタープランがない)だろう。つまりは現在進行形なのである。
越澤明は、『東京都市計画物語』(ちくま学芸文庫、2001)のはしがきでこう記している。「東京は都市計画が不在であった”という言い方をする人が少なからず存在する。しかし、果たしてそうなのだろうか。正しくは、東京には都市計画は存在した。ただ、当初の計画通りに実施されなかっただけにすぎないのである。そしてその都度の都市計画事業、プロジェクトの成果に後の世代が大きく依拠しながら、それを忘れ去り、新たなストックをつくり出せず、むしろその遺産(ストック)を喰いつぶすことをしてきた。」(p.13-14)

千年の首都の壁を荒廃させ、代わりにヘンリー・D・スミスの造語であるエフェメロンとしての都市を譲り受けた文化としては、驚くには値しない。彼は「人間と自然の間の調停の場のように…[中略]…、人間と自然の連続性という土着の感覚に根ざし、中世首都の実際の姿である定住地と未開拓地の非公式な混合によって維持されていた。都市貴族の美学では、自然と人工物の曖昧さが非常に重要視された」と記している。都市としてのエフェメロンが人間と自然の連続体の一部であったように、東京もまた、火災や地震など、変性要素による直接的な影響を受けている。都市の新陳代謝には、ある意味、変化が必要なのだ。しかし、東京では、変化が起こるたびに、実現されなかったマスタープランの形があった。

後に将軍となる地方の有力者が累代の領地から江戸に移ったとき、小さな漁村が後に人口数百万人規模の都市になるとは、本人も想像していなかっただろう。1603年、江戸幕府樹立とともに縄張りあるいは今日でいうマスタープランが開始される。これが、未完成な都市の始まりであった。スパイラルの都市図形は、防御的であると同時に魔法陣であり、永遠にこの都市の成り立ちを決定し、支持/指示し、今日の存在たらしめんフレームワークとなった。

明暦の大火を描いた田代幸春画『江戸火事図巻』(文化11年)

様々な変性プロセスによって、この都市は衝撃的なまでに変化し、新陳代謝を繰り返してきた。このニュースレターでは詳細を述べないが、そのような出来事の一部を紹介する。江戸を襲った多くの火災の中で、1657年の明暦の大火は最も厳しいものであった。江戸の6割近くが灰燼に帰し、10万人以上の命が失われた。この災害の後、火除け地・防火帯が導入された。1707年に発生した富士山宝永噴火では、農作物が被害を受け、広い範囲で飢饉が発生し、復旧に数十年を要した。1855年に発生した安政の大地震では、市街地や沿岸部を中心に揺れが発生し、津波の被害が広範囲にわたって記録された。1868年の江戸城無血開城の後、明治維新を経て、1872年の大火が発生すると、新政府は西洋化の象徴として、当時の新耐火建築材料である煉瓦を使った街づくりで銀座を復興させた[1]。ただし予算の関係上、復興は銀座周辺に限られたものだった。そして、帝国の威厳にふさわしい新しい首都づくりの一環として、お雇い外国人が招聘された。

エンデ・ベックマン&ケーラー事務所による帝都のアンビルド・マスタープラン(1880年代)

1862年に発表された100万都市ベルリンの開発計画「ホブレヒト計画」で知られるプロイセンの都市計画局長ジェームズ・ホブレヒトが1886年に招聘された。結局、1887年にヴィルヘルム・ベックマンとヘルマン・エンデが招かれ、大通りのある新古典主義都市を計画したが、このときも予算上の理由と、日本における西洋建築の模倣に対する文化的反発の高まりから頓挫することになった。その片鱗は、1895年に竣工した司法省の設計図と完成予想図に見ることができる。1889年、彼らの設計した皇居のパレード場は、松を植えた芝生の広場となり、子々孫々永久支配の象徴として、より低予算なもので変換されることになった。

エンデ・ベックマン&ケーラー事務所による日本の国会議事堂のアンビルドプラン(1880年代)

1923年の関東大震災は、もう一つの可能性を秘めた出来事だった。震災からわずか3ヵ月後の1923年12月、「帝国再興計画」が閣議決定された。この計画は、予算削減や縮小はあったものの、大小の公園、広い緑地帯となる昭和通り、日本初の川沿いの公園である隅田公園、防火施設などが整備され、大きなレガシーとなった。1945年、第二次世界大戦が終わると、「戦災復興計画基本方針」が策定されるが、これもGHQの緊縮財政による「ドッジ・ライン」政策によって阻まれる。

越沢はこう嘆く。
「近代日本の都市計画の特徴は、平時においては都市計画・都市改造に対する政府・自治体・世間一般の理解が欠落し、財源不足のために計画がなかなか具現化しない。都市計画が実行されるのは、残念なことに非常時(大災害の復興、戦時体制下の軍需関連、戦災の復興)を除けば、ナショナルイベント(オリンピック、ユニバシアードのような大スポーツ祭典、また万博のような大規模イベント)のときに限られてきた。」(p.290)

東京・アジア初のオリンピックである1964年の第18回オリンピック、2020(21)年の第32回オリンピック、ひいては1972年の大阪万博、2025年の大阪万博もまた、そうしたイベントに基づく触媒となるはずだった。これらのイベントは、果たして何を残したのだろうか。先人の足跡をたどることは宿命なのだろうか。後日発表する本論では、マスタープランの現状をさらに分析する予定である。

帝都復興概念図 東京市長時代に技師に描かせたもの
環状道路計画などが既に盛り込まれており、近代都市計画への先見性が見られる(後藤新平記念館所蔵)

一方で、あえて言えば、当初の都市のスパイラル図が、現在に至るまで影響や作用を及ぼしていることを想像してみよう。予算や未理解がゆえ、東京の壮大な計画が中断されることはあっても、深く根付いた過去のプロトコルが崩れることはなく、逆に、権力者が望むような完璧さ、一貫性、徹底的な理解を都市にもたらすことはないだろう。その代わりに、この都市は、権力構造の外にいる人々が、社会的内向と外向の程度が異なる、オタク的な強迫観念の領域に似た、非常にニッチな分散型バブルを見つける、あるいは作り出すための一種の分散化を提供する。河合隼雄はその代表作『中空構造日本の深層』(中公文庫、1999)で「敗者に対する愛惜感の強さ」と表現している。「いわゆる判官びいきの原型となるものであろう…[中略]…何かの原理が中心を占めるということはなく、それは中空のまわりを巡回していると考えることができる。つまり、類似の事象を少しずつ変化させながら繰り返すのは、中心としての「空」のまわりを回っているのであり、永久に中心点に到達することのできない構造であると思われる。…[中略]…それは権威あるもの、権力をもつものによる統合のモデルではなく、力もはたらきも持たない中心が相対立する力を適当に均衡せしめているモデルを提供するものである。」(pp. 46-47)

執筆(英文):カズ・ヨネダ
編集:出原 日向子

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お付き合いいただきありがとうございました。
それでは、次回をお楽しみに!