万博レポタージュ: 虚しい谺 [ニュースレター:2025年六月号] / by kaz yoneda

舞台裏:来場客を迎える2025万博のマスコット「ミャクミャク」(写真:筆者提供)

建築における「山脈」(五十嵐、市川等々)のアナロジーを意識することが増えました。聞き慣れていなければ、禅宗の法脈みたいなものと言えば聞こえは良いでしょうが、悟りのように高尚なものかと問われれば、甚だ懐疑的にならざるを得ません。山脈から外れた孤山や、系譜を築きにくい海原も存在し、山脈から外れた一人としては、その困難さを痛感しています。圧倒的なカリスマやコネがなければ独立峰として立つことは極めて難しいのが現実です。そして、この山脈の最たる具現が、2025年大阪万博に凝縮されているのではないかと漠然と感じていました。先日、勉強と視察を兼ねて万博を訪れた際、この仮説は確信へと変わりました。

誤解を避けるためにお断りしておきたいのですが、万博に参画し、各パビリオンや施設の構想段階から実現まで尽力された方々には心からお祝いを申し上げたいと思います。その道のりは想像を絶する困難の連続であったことでしょう。これは批判ではなく、山脈に属さない部外者としての客観的な考察として受け止めていただければ幸いです。また、海外パビリオン、運営母体や特定の企業に対する批評でもありません。

太陽光熱塩水浄化棟, 2022(B01提供)
https://www.bureau0-1.com/projects/solar-still-pavilion

さて、今回の万博における国家を代表するシグネチャー・パビリオンや企業パビリオンは、最初に触れた日本の系譜山脈や建築コミュニティーを顕著に映し出すマイクロコズムでした。人選をみると、ごく一部の例外を除き、日本を代表する著名な建築家が名を連ねているのは当然の結果と言えるでしょう。そして、休憩所、ギャラリー、展示施設、ポップアップステージ、サテライトスタジオ、トイレといった諸施設は、オープンコンペで選ばれし選りすぐりの新進気鋭の若手建築家ばかりです。ここにもあまりサプライズは少なく、コンペの審査員に縁浅からぬ人達が多く含まれていたのも、予想どおり調和のとれた人選だったと見受けます。(なにを思ってか、私もプロポーザルを提案しましたが、コストを度返しした構想であったため、今となっては大法螺吹き過ぎたなと反省しています。しかしながら、これはこれで世界を舞台にしたフォーラムで実現してみたかったデザインだったので後悔はありません。黎明期の藤本事務所を支えたという根拠のない自負があっただけに、結局小生は、山脈には属さない異端なのだなと再実感しました。)

結果として、藤本壮介氏が設計したリングを中心に、2025大阪万博は日本建築のマイクロコズムを体現するに至りました。このリングは、現代の日本を如実に表していると私は考えます。1970年の大阪万博開催時、建築そして日本にはグランドナラティブが存在しました。メタボリストたちが夢見た世界は、中心のお祭り広場を覆う巨大なスペースフレームの大屋根と、それを貫く太陽の塔の周りに展開されていました。その翌々年には、田中角栄内閣が日本列島改造計画を発表し、経済の地方分散と地域格差の是正を目的とした政策を打ち出しました。55年後の2025大阪万博では、この分散という概念を違う意味で体現していると言えるでしょう。中心的な大屋根から周遊するリングの屋根へと変化しました。これは、個人的にはグランドナラティブの有意義性を信じていますが、往々にして中心から縁へと流れる近年の思考の象徴ではないでしょうか。一極集中から地方へ、中央管理から分散型へ、融和から断絶へ、全体から個へ。

1970大阪万博 "お祭り広場" と 2025大阪万博 "ザ・リング"
(左:
日本経済新聞;右: Ibamoto, Creative Commons)| 1970 Osaka Expo

宝誌和尚像、京都国立博物館
「表徴とは裂け目である。そのあいだから覗いているものは、ほかならぬもう一つの表徴の顔である。」
ロラン・バルト著『表徴の帝国』、77頁(注釈:この写真も引用文も日本語版にしか存在しない)

さらに、リングは大阪にありながら、日本、そしてその象徴である首都・東京らしい造形物とも言えます。ロラン・バルトが言い得て妙だった考察として、東京の中心に広がる皇居という、権威はあっても権力のない空虚な時空間に、意味から解放された独特の自由さを肯定的に捉えていました。西洋の精神世界が記号を意味で満たそうとするのに対し、日本では意味の欠如を伴う、あるいは意味で満たすことを拒否する記号が共存することが示唆されていました。意味から切り離されたことで、図像自体の輝きを持つものとなります。このリングも、その内外で渦巻く数多の物象も物語も、結局のところ、そこにある圧倒的な存在に依る図像が、なんら言葉を発する必要がなくなる世界を醸成しているのかもしれません。どれほど山脈の中で意味のない言葉がこだまし続けようとも、このような時代性を残して後々検視できるように、かのリングは万博が終わった後も何らかのかたちで残したほうがいいと思います。

レポーター:キャズ・T・ヨネダ

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お付き合いいただきありがとうございました。
それでは、次回をお楽しみに!