旧街道を走る訳 - エピソード③ [ニュースレター:八月号] / by kaz yoneda

街道と面

前2回分を通して、私たちは毛細血管のように列島中に張り巡らされた街道と、延々と続く道のりに点在する多様な地点を見ながら旅してきました。その中で、魅力的な遺跡、謎めいたキメラ、冷たい墓碑銘に出会いました。ラブホテル、パチンコ屋、ショッピングモールの飽くなき侵食も見逃せません。これらの要素は何世紀にもわたり、人、物、そして取引の産物(お金と情報)が激しく行き交う網目を構成してきました。その後、街道の重要な部分がコンクリートの高速道路や鉄道路線に取って代わられたりしましたが、この活発な移動状態はそのまま維持されるどころか、むしろ速度と量を増して、グローバルにも影響を及ぼす可能性があります。つまり、このネットワークは現在も活動しているのです。しかし、高齢化と人口減少に加えて、経済と政治の低迷が、このネットワークの脈動に影響を与えています。

日本海山潮陸図 石川流宣作 (1691)

一つの仮説は、この巨大なネットワークのノード(結節点)は、理論上は空間的につながっているものの、孤立しているというものです。要するにそれぞれのノードは自活していて、自閉した独立の複合体の中に宙吊りになっているのです。そこには、現在を形成する深い歴史的根源があります。「次」、「関」、そして点在する農村は、互いにほとんど交流してきませんでした。それらは機能的にも文化的にも独立した機関であり、例外的に危機・災害の際や、大名行列などの権力や支配を誇示するものも含めた「祭り」的要素の発動時にのみ連動しました。幕藩体制の下では、明治維新に至るまで、各藩は信じられないほど高い自律性を保ち、独自の制度、伝統、工芸、さらには方言などを育んできました。また、1615年に出された「一国一城令」によりおよそ300年間、一つの領国につき一つの城下町を維持することしか許されていませんでした。この一国一城令により更に体制が内在化され、境界を超えた交流や連携の機会は滅多になくなり、結果的に地域的な自律主義はじわじわと浸透していきました。島国全体に一貫性を与えた価値観は、米による課税・金本位制の通貨・そして混成された曖昧な宗教感だけだったと言っても過言ではありません。それらを除けば、各藩領の支配者たちは自領のことで満足していた、手一杯だった、と言う方が正しかったでしょうし、実在はしても見えない中心の覇権的な視線に対して頑なに身構えていました。この食物連鎖の頂点に位置したのが江戸であり、そこではあらゆるものが集合や衝突を繰り返し、鎖国令によって理論的には孤立した国家が、限定的かつ欺瞞的に世界とつながり、外国の干渉から自らを仮面で覆い隠していました。唯一この均衡が稀に揺らぐのが外部からの劇的な介入で、例として13世紀の蒙古襲来、19世紀のペリー遠征、20世紀の連合国による占領があげられます。しかしながら、根本的な構造は維持されており、人々や地域社会がどのように行動するか、都市や県がどのように統治するか、そして何よりも、国家が自己の特異性を「ガラパゴス化」という比喩的な造語さえ利用し、他から差別化するために再パッケージ化が行われている点に顕れています。

重要な城下町が県庁所在地になった例として駿府城(現在の静岡市)がある

このように、ネットワークは商取引としては機能していますが、相互の文化交流システムとしては機能していません。相互の結束は、固く結ばれている必要はなく、むしろ、環境に応じたゆるやかな結びつきでもいいのです。ここで問題になっているのは、ジョン・ヘイダックが言い当てているように、「人間的な社会、コミュニタス(communitas)の実現」かもしれません。自治体、県、そして国のあらゆるレベルにおいて、特定の勢力圏にある地域だけを良くしようとする考えこそが、面的な広域としての魅力を失わせる原因となっています。孤立した個別の限定的な地域のスケールではなく、より大きな面として問題を理解し、概念化しなければなりません。まずは現代の封建政治的な仮面を被った幾重なる制約を剥がし、いくつかの越境を試みることを厭わないことが重要です。マスタープラン、リージョナルデザイン、どのような呼び方であれ、私を含め日本の建築家は街や地方を面的な広域といったより大きな空間の課題として捉えて取り組み始めるべきでしょう。

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来月は、ゲストライターに寄稿してもらいます。乞うご期待!

執筆(英文):カズ・ヨネダ
ネイティブチェック:グレッグ・セルヴェータ
編集:出原 日向子
アソシエイト:園部 達理